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『さよならドビュッシー』はアンフェアな物語だと思う

現実離れした設定は、ミステリにふさわしくない

学生の頃はアガサ・クリスティを全作品読破したものですが、就職してからはミステリから遠ざかっていました。
何しろ一旦読み始めると最後まで読まずにはいられない性分のため、新米社会人としては起床に非常に不安を感じたわけです。

『さよならドビュッシー』は、友人が「ピアノの弾き方が習ったのと全然違った」「まるで音楽が聞こえてくるような話だよ」と勧めてくれたので、私も子供の頃ピアノを習っていたということもあり、20数年ぶりにミステリを読んでました。

絶対犯人を当ててやる!と意気込んで読み始めたのですが…
結果的に綺麗に騙されました。

でも…

※『さよならドビュッシー』を未読の方はご注意ください。極力ネタバレは避けますが、この記事を読んでから『さよならドビュッシー』を読むと、犯人がわかってしまう可能性が高いです。

でも…
『さよならドビュッシー』の書き方については、疑問が残ります。

振り返ってみると、伏線はたくさんありました。
フェアなものも、アンフェアなものも。

犯人が分かってから振り返ると、確かに引っかかる箇所がいくつもありました。
アンフェアな部分もありますが、引っかかりを総合すれば、犯人を当てることは可能だったと思います。

でも…
私はあえて引っかかる箇所を無視しました。
それは、自分の中である枠組みを設けたからです。

物語を読む時、人は、その物語がどういう約束事で書かれているか、どこまで現実的でない設定が許されるかを判別しながら読んでいると思います。

例えばファンタジーなら、魔法による超常現象が起こっても「それは現実的ではない」と怒る人はいないでしょう。
SFならば、たとえ現代が舞台でも、タイムトラベルや瞬間移動ができたり、宇宙人が出てきても不自然ではありません。

では、ミステリの枠組みはどうでしょう?

『アガサ・クリスティー完全攻略』で、霜月蒼はミステリについて次のように書いています。

「謎解きミステリは、誤解の余地なき事実によって解決が導き出されなくてはならない小説形式である。」

『さよならドビュッシー』では、ヒロインは指にまで大火傷を負ったにも関わらず、わずか数ヶ月でピアノを弾けるようになり、あまつさえ音楽学校の同級生よりも見事な演奏を披露します。

現実にはあり得ないことです。

これが青春小説だったらいいでしょう。
問題は、この小説が、現実の物理法則に則った世界であるべきミステリで、現実にはあり得ない設定をしている点なのです。
この1点を「演出のため」と許してしまうと、その他の現実離れした描写も、「演出のため」と思ってしまいます。
事実私は、冒頭の火事のシーンで非常に違和感を感じたのですが、驚異の回復のくだりで、「火事のバックドラフトの件は、物語を盛り上げるための演出だったのだろう」と判断してしまいました。

ミステリ小説においては、現実離れした設定それ自体がアンフェアなことに思えます。

作者の中山七里さんは、どんでん返しが得意だそうです。
『さよならドビュッシー』はデビュー作だそうですので、以降の作品では改善されているといいのですが。


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