『哀しい予感』に見る死と再生
予感は哀しいものと相場が決まっている
日曜日、コロナ自粛で疲れた私は、なにも考えたくなく、現実逃避のように吉本ばななの本を読み漁りました。
哀しい予感、TUGUMI、とかげ、うたかた/サンクチュアリ。
4冊も吉本ばななの本を読めば、頭の中が飽和します。
小説の中のように何かきっかけ一つで、世の中の見方がガラッと変わるといいのに、と思いながら眠りにつきました。
翌月曜日の夕方、在宅勤務中に、会社支給の携帯が鳴りました。
同じ事業部の、本社勤務の方が亡くなったという知らせでした。
朝から連絡が取れず、午後になって上司が自宅を訪問したところ、亡くなっていたそうです。
時期が時期ですから新型コロナウイルスかと思われたのですが、検査の結果、死因は別の病気ということが後に分かりました。
ですが、それがわかるまでの数日間、いろいろなことを考えました。
そもそも、私のように地方に住んでいると感染者も少なく、特に県内に死者が出ていないと、正直新型コロナウイルスはそこまでの脅威には感じていませんでした。
それが一気に身近になった。
「本当に、若くてもあっという間に死んでしまうんだ」
「そのうちこの田舎でも、猛威を振るうだろう」
「こんな恐ろしいウイルスが毎年流行ったら、どうなってしまうんだ?」
「私も死ぬかもしれない」
その人とは、2~3回しか会ったことはありません。
精力的に仕事をする方という印象はありましたが、プライベートは何も知りませんでした。
独身で、一人暮らしをしていたということも、初めて知りました。
まだ40代。
仕事に打ち込んでいたので、仕事は楽しかったのでしょうか。
私も40代です。
今死んだら後悔はない?
いいえ、大ありです。
今の仕事は楽しい?
いいえ、全然楽しくありません。
やり残したことはない?
もはや、何をしたかったのかさえ、分からなくなっています。
死について、子供のこと、親のこと、自分のこと、やりたいこと、やり残したこと、嫌々やっていること。
「とりあえずいつ死んでもいいように、部屋を片付けないと」
から始まり、
「エンディングノートを作っておこう」
「新型コロナウイルスに感染しても重症化しないように、持病をきちんと治療しよう」
と、様々に自分を見つめ直す機会になりました。
「予感」と「啓示」
その人の死を「啓示」とは思いたくありません。
私のために亡くなったわけではないので、そんなことを考えるのは思い上がりにも程があると思います。
ですが、「啓示となり得るように生きたい」と思います。
事象では人は変わりません。
その事象に対し、考え、行動し、初めて人は変わります。
私はその人の死で、何か変わったのでしょうか?
今はショックが大きいので、確かに変わったように見えるかもしれません。
部屋を片付け、ずっと気になっていた粗大ゴミを処分し、部屋はスッキリしました。
面倒臭くて放置していた手続きも、完了させました。
でも、数ヶ月後は? 数年後は?
私はその人の死で何か変わったでしょうか?
分かりません。
ですが、何か変われるように生きたいとは思います。
それが、僭越ではありますが、その人の死を無駄にしないことにつながると思うのです。
哀しい予感
今回読んだ4冊の中では、『哀しい予感』が一番好きです。
幼児期の記憶のない主人公の弥生は、幼い頃は霊感が強く、予知もできる子供でした。
ある日、突然、弥生は失った幼い頃の記憶を断片的に思い出します。
それがきっかけで、弥生は家出をし、変わり者のおばの元へ向かいます。
吉本ばななの小説らしく、前触れもなく「きっかけ」が起こり、物語が動き始めます。
主人公は戸惑いながらも、これから起こることを半ば知っているかのように考え、行動します。
現実の世界でそんなことは、悪いことでしか起きません。
大抵の場合、「これを放置していたら、状況はきっと悪くなる」ということを放置し、そしてその「悪いこと」は起こるのです。
私たちは、「なんでこんなことに…」と言いつつ、心の奥底では「やっぱりこうなったか」と思っている
です。
現実とは真逆に、「きっかけ」によって、戸惑いつつも良い方向へ向かうことが羨ましくて、吉本ばななの本が好きなのかもしれません。
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