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『捏造された聖書』まとめ・要約・感想

聖書のオリジナルの文章を解き明かす作業は、良質の推理小説のよう

このところ死海文書に関する報道が増えています。

先日は、今まで全てヤギの皮に書かれていると思われていた死海文書の一部が、牛や羊の皮に書かれていたことが明らかになったそうです。
これの何が重要かというと、牛や羊の皮に書かれた写本は、砂漠由来ではないということ。
…ということは?
よく分かりませんが、推測されていた閉鎖的な教団以外の手によるということでしょうか?

他にも、特殊なカメラで撮影した結果、何も書かれていないと思われていた部分に文字が書かれていることがわかったという報道もありました。

死海文書が重要視される理由の一つに、聖書の最も古い写本であることが挙げられます。

学生の頃、イスラエル旅行に行きました。
ユダヤ人家庭に嫁いだ日本人ガイドさんが、ユダヤ人についていろいろ説明してくれたのですが、その中に、コーランの写本をするときは、許容される誤字の数が決められていて、それ以上間違えた場合は最初からやり直さなければならないという話がありました。

昔は印刷技術がなかったため、すべて手で書き写していました。
当然写し間違いが出てきます。
著者のバート・D・アーマン氏は、聖書の写本を分析して「オリジナル」な言葉を再現する学問である「本文批評」の専門家です。

写本と内容の改ざん

日本の古典でも「異本」は存在します。
例えば源氏物語の場合、オリジナルは失われてしまっており、異本が100本以上あるとされています。

聖書の場合は、作成時期が源氏物語より古く、より多くの人に読まれたため数多くの写本が作られ、ギリシア語写本だけで5700以上が発見されているそうです。
現存する写本同士の間に存在する相違点の数は、新約聖書に出てくるすべての単語の数より多いとか!

なぜ聖書にこれほどの相違点があるかというと、聖書が作られてからの最初の200~300年間は、プロの書記ではなく、文字の読み書きができるキリスト教徒、つまり素人が写本していたからだそうです。
さらに悪いことに、古代ギリシア語では句読点が使われず、大文字と小文字の区別もなく、単語と単語の間のスペースさえ存在しないのです。
これがどれほど読みにくいことか!

「さらにわるいことにこだいぎりしあごではくとうてんがつかわれずおおもじとこもじのくべつもなくたんごとたんごのあいだのすぺーすさえそんざいしないのです」
すぐ上の文章を全部ひらがなで書いたものですが、非常に読みにくいですよね。
この文章を、「文字が読める」のではなく「文字の形を識別できる」程度の人が写したとしたらーー、正しく伝わると考える方がおかしい話です。

3世紀の教会関係者は、手元にあった福音書について次のような不満を述べているそうです。

それぞれの写本同士の相違は甚だしいものとなっている。それは一部の写字生の無知によるものであったり、あるいは他の写字生の御しがたい無謀さによるものであったりする。彼らは自分で筆写したものを見返すということをしないし、その見返しの作業で、好き勝手に追加や削除を行うのである。

3世紀の段階でこれならば、印刷技術がようやく普及した15世紀までには一体どれだけ内容が変容したことでしょう。

今の聖書の文言の何%が、オリジナルの文章なのでしょうか?
これらの相違を精査し、よりオリジナルに近づけるのが「本文批評」の専門家達の仕事ですが、その困難さは想像を絶します。

そもそも現在伝わっている聖書には矛盾があり、それがオリジナルから矛盾していたのか、写本の過程で間違えてしまったのかは、もはや誰にも分からないのです。
例えば、マルコはイエスの磔刑は過越の食事の後だとしているのに対し、ヨハネは過越の食事の前だと述べているなどです。

それでも、わずかな手掛かりからオリジナルの言葉を推測して行く様子は、まるで推理小説のようです。
「本文批評」の専門家を翻弄するのは、単なる書き間違いだけでなく、意図的な改竄も含まれています。

意図的な改竄にも2種類あります。
一つは写字生が写本のお手本の誤りを正そうとする善意の改竄、もう一つは神学的理由による悪意の改竄です。

改ざんの見分け方

改ざんを見分けるには、著者の文体や語彙、神学などを分析して推測する手法がとられているそうです。
例えば、一方の写本には存在するが、他方の写本に存在しない文章があった場合、その文章が他の文章の文体と同じか、その文章にしか現れない語彙はないか、そもそもその文章は著者の思想にあっているか、著者が書きそうな内容かということを分析するのです。

また、書記がしでかしそうな改ざんを見分ける方法として、「より理解困難な文こそがオリジナルに近い」という、一見不思議な考え方に基づく方法がとられているそうです。
つまり、書記は自分が矛盾や誤記だと判断した部分を改ざんしがちだということらしいです。

例えば、イエスが皮膚病の男を治してあげる場面。

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来て跪いて願い、「御心ならば、私を清くすることがおできになります」といった。
イエスが(憐れんで/怒って)手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

『マルコ』1章41節

イエスが男を「憐れんで」病気を治したというのは、筋が通っています。
しかし、イエスが「怒った」というのは、意味がわかりません。
なので、「憐れんで」がオリジナルの文章である、と普通は考えます。
ですが「本文批評」の専門家によれば、「イエスが怒った」という文の方が理解が困難であるがゆえに、「怒った」の方がよりオリジナルらしい、と考えるのだとか。

そう言われれば論理的に正しいように思えるのですけれどもね。
それにしても不幸な男にイエスが怒りを表すとは、イエスらしくありません。
ここはどう考えても「憐れんで」の方が正しいように思えるのですが…

著者は「怒った」という文脈でこの一節を解釈しますが、その解釈は本書の白眉です。
なるほど、これは確かに「イエス・キリスト」であれば怒って当然だろう、と。

意図的な改ざん

聖書に、「誰も、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしない。」という一節があります。(『ルカ』五章37-39)

イエスが唱える新しい教義は古い教義よりも優先される、という意味だと思っていたのですが、実は次の文が続いていたのだそうです。

「また、古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。「古いものの方がよい」というのである」

(『ルカ』五章37-39)

この言葉の意味に悩んだ書記たちは、この一文を削除してしまったそうです。

その他にも、女性の役割を弱め、ユダヤ人の救済を否定し、神学論争の結果に合わせて聖書を改ざんした痕跡があるそうです。

著者によれば、聖書の有名なエピソードも後年付け加えられたものがあるそうです。

例えば、姦通を犯した女の話。
イエスに敵対する人たちがイエスの前に姦通を犯した女を連れてきて、律法通りに石打ちにすべきかどうかキリストに問い、イエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい」と答える話です。
キリスト教徒でない私でさえ知っている有名な話です。
この話が元々の聖書には載っていなかったとは…

これは、世界で初めて新約聖書を印刷、刊行した時に参照したギリシア語の写本は、必ずしも信頼できるとは言えない写本に依っているためです。
つまり、たまたま手に入った数冊の写本を元に印刷された聖書が、今に至るまで「聖書」として普及しているのです。

これはひどい。
私はキリスト教徒ではありませんが、今現在判明している文だけでもいいので、できるだけオリジナルの形に近い聖書を刊行すべきではないでしょうか?


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