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『コンビニ人間』で気づいた私の社会不適合者っぷり

多分、多くの人が『コンビニ人間』の主人公 恵子に抱く違和感を、私は多くの会社員に抱いています。

恵子は「コンビニの店員」の枠にはまって生きる方が、「普通の人間」として生きるよりも圧倒的に生きやすいと思っています。
「コンビニの店員」としてふさわしい表情、会話、振る舞い。
耳はお客の立てる「コンビニの音」を拾い、レジで客を待たせないように行動し、目は客の仕草や視線を読み取り、身体は反射的に動きます。
一人の人間としては、他人の心の機微が読めず、「普通」が分からない恵子ですが、「コンビニ店員」としては何をどうすればいいのか完璧に理解しています。
30代の女性にふさわしい身なりが分からず、同年代の同僚の持ち物をチェックして「30代らしく」装う恵子ですが、「コンビニ店員」としては店の周りをリサーチして歩くくらい、意識高く取り組んでいます。

私には、「会社のために」と働く会社員たちと恵子が重なって見えます。
恵子は単なるアルバイトに過ぎないというのに、コンビニが生活の中心で、店の周囲をこまめに歩き、競合や顧客の増減をリサーチします。
私は、会社とは単に雇用契約を結んでいるに過ぎないと考えているので、滅私奉公的な働き方がどうしてもできません。
「会社のために」と神経をすり減らして働いても、会社は社員が尽くすほど社員に尽くさないのに、なぜそこまで一生懸命になれるのだろう?といつも不思議に思います。
コンビニ関係の仕事をしている人にも会いますが、新商品発売の火曜日のために連日新商品開発に追われ、心身を病んで辞めていく人を何人も見てきました。
そこまでして発売にこぎつけた新商品も、売り上げが悪いとあっという間に終売になってしまいます。
そんな一瞬で消えてしまう仕事に心血を注ぎ、自分の人生をすり減らさなくても、会社との「契約」の範囲内で最善を尽くした仕事をすればいいのに…、とどうしても思ってしまいます。

自分というものが分からず、「ペルソナ」の方に安心感を抱く恵子を通じて「普通」を問う小説かと思いきや、「芥川賞受賞作『コンビニ人間』を、コンビニで働く人たちが読んでみた」という特集では、「私もコンビニ人間だ」とか、「私はコンビニ人間であり続けたい」「どこか恵子と同じ自分に安堵した」「恵子に会いたい」といった感想が並んでいて驚きました。
のみならず、著者の村田沙耶香氏自身もコンビニで働いており、「コンビニ愛」が強いとおっしゃっていることに、呆然としました。

もしかしておかしいのは私の方で、やっぱり世の中は企業が提示する枠にぴったり当てはまる人間を良しとしているのか?

しかし、物語の中盤に、自分自身もコンビニの客であるのに、他の客にコンビニの使い方のダメ出しをしている中年男性が出てきます。
その人は、言っていることは正論ではあるものの店員から見ても明らかに邪魔で異質でした。
ちょっとした一挿話かと思っていたのですが、物語のクライマックスの恵子の行動と対比されています。

コンビニのアルバイトを辞め、派遣の面接に向かう恵子は、立ち寄ったコンビニで自然と身体が動きます。
セール品や新商品を目立つ場所に移動させ、バイトにアドバイスをします。
恵子にはコンビニがあるべき姿になるための「声」が聞こえ、自分は人間としていびつでも、コンビニ店員として生きるために生まれてきたと気づきます。

自分は何のために生きているのか、何を成すために生まれてきたのか。
人間の根幹をなす問いに恵子が答えを出す感動的(?)な場面ですが、他人から見れば恵子のしていることは結局のところ前述のダメ出しおじさんと変わらないわけです。
「人間が道具のように生きること」を問う物語であるのに、登場人物と同じ仕事をしている人が比較的多くいて、しかも仕事の性質上恵子のように感じてしまう構造であったことから、作者が意図した以上に恵子に感情移入した人が多かったように思います。
それも含め、職業的に与えられる枠組み、社会的に与えられる枠組みとどのように向き合い、折り合いをつけ、または反抗するのかを問うた物語だと感じました。

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